移住者体験談
殿塚 竜夫さん、千恵美さん
移住先 | 茅野市 |
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移住年月 | 2017年春 |
家族構成 | 夫婦、子ども2人 |
職業 | 国産小麦と天然酵母のパン屋「カルパ」店主 |
はじめに
八ヶ岳の西麓に広がるまち、長野県茅野市(ちのし)。
自然豊かな環境でありながら新宿から特急電車で約2時間というアクセスのよさも魅力で、“ほどよい田舎暮らし”を実現したい移住者にも人気のまちだ。
そんな茅野市の住宅地に、昨年一軒のパン屋がオープンした。
大通りに面しているわけでもない、決して分かりやすいとは言えない場所。ぎらぎらと派手な看板があるわけでもなく、広告を出しているわけでもない。それなのに、口コミで評判が広まり、地元住民や別荘居住者、そして遠方から訪れる「パン好き」など、すでにたくさんのファンが生まれている。
実は、お店のご主人は東京生まれの移住者。
「宇宙の始まりから終わりまでの時間」を意味するという「カルパ」という名のこの店を営む殿塚竜夫さん、千恵美さんご夫妻にお話を伺った。
転機
東京都青梅市生まれの殿塚さんご夫妻。
「東京にいるときから山が好きで、信州の自然に魅力を感じていました。いつかは住みたいなと」。
竜夫さんは食品関連の会社で働いていたが、長男が2~3歳のとき、ある決断をする。
「働きたいと思っていた『ルヴァン』の上田のお店で募集が出たんです。このタイミングかな、と感じて応募しました」
天然酵母パンの名店として知られる「ルヴァン」。前職での出会いから、微生物や発酵の活動に関心を持ち自分でも菌を使って何かつくってみたいと考えていた殿塚さんにとって、必然とも思えるタイミングだったのだろう。
とはいえ、幼い子どもを連れて知らない土地に移ることに、千恵美さんは抵抗はなかったのだろうか。
「本当に急で、話が出てから実際に移住するまでに2~3か月しかなかったんです。でも、県を越えて新しいところに移動する、そのこと自体が楽しみだった。行けば何とかなると思いました」
こうして殿塚さんご一家は長野県上田市へと移住を果たし、竜夫さんは「ルヴァン 信州上田店」で4年間修業することになる。
移住
「上田ではわりと街のほうで暮らしていました。地方でも、街に近ければ不便を感じることはないし、むしろ青梅より便利な面もありました。病院も空いているし。寒さはやっぱり厳しかったですね。最初は慣れなくて体調を崩したりもしたけど、子どもも元気に育ちました」
上田で修業した4年の間には、次男も誕生した。
そして2017年春、茅野市を独立の場所に選び、家族で移住。同年8月、国産小麦と天然酵母のパン屋「カルパ」を開店する。
移住、そして独立の時期は決めていたのだろうか?
「長男が小学校に上がるタイミングで、そのときには次の場所を決めようと考えていました。小麦を作ってくれている上田の農家さんとコンタクトが取れるところという条件で、県内のいろいろな場所を検討しました。もう少し街っぽいところも考えたんですが、お店をやるうえではよくても、暮らすことを考えると、自分が考える『長野県で暮らす』というイメージに合わなかったりして…なかなか決められなかったんです」
そんなとき、夫婦での会話がひとつのきっかけを生む。
「ふたりで話していたとき、ふと『八ヶ岳ってなんかいいよね』って言われて。いいよねって盛り上がって、それじゃあ茅野市を見てみようかという話になったんです。実際に来てみたら、イメージに合って『あ、ここいいかも』と思える家に出会えたのでほぼ第一印象で決めました」
店舗用に決めたのは、住宅街にある元書道教室の建物。自宅はその裏手にある。
「物件探しには各市町村の空き家バンクを使っていたので、茅野市の物件も『楽園信州ちの空き家バンク』を見て探しました。ネットで見ていいかなと思って、その場所が茅野市のなかでどんな場所なのかも調べずに、実際に見たときの印象で決めました。決めてからはいろいろ調べましたが…。茅野の物件は1軒しか見ていないんです」
店舗の内装はふたりで改修したという。
「天井を抜いたり壁に穴を開けたり入口を作ったり。リノベーションは初めての経験でしたが、やってみたら意外にできました。本やインターネットを参考にしたり、諏訪のリビルディングセンターに相談したりして。ドアの付け方も分からなかったので、身近にあった趣味のスケボーをつけてみたんです」
お店には改修中のスナップ写真を収めたアルバムが置いてある。今では殿塚さんが焼くパンとおふたりの雰囲気にぴったり似合う内装になっているが、改修前はまるで違って驚く。プロの手による計算し尽くされた内装とは異なるいい意味での「手作り感」が、訪れる人を自然とくつろいだ気分にさせてくれる。居心地がよく、ついおしゃべりしながら長居をしたくなってしまうのだ。
「住居の方は築40年近く経っていて、外壁は傷んでいるところがあったので業者さんにお願いしました。茅野市の補助金(空き家住宅改修事業補助金)を使って。内装は、自分たちでできることは自分たちでやりました」
千恵美さんもずいぶん作業に参加したという。
「楽しかったです!楽しみながらやりました。子どもが多少いたずらしても、自分たちで住む家だからいいかな、くらいに考えて」
「子どもたちも覚えていてくれたらいいよね」
暮らし
茅野に移住してから、お子さんたちはどのように過ごしているのだろう。
「うちから小学校まで2.5キロくらいあるんです。しかもゆるい坂道で、子どもの足だと30~40分かかる。最初は大丈夫かなと少し心配したけど、そのおかげで足腰が強くなって、一緒に散歩に行ってもたくましくてすごいと思う。それに、都会だと学校から帰ってくるとみんな塾に行くのが当たり前というようなところもあると思うけど、帰ってきてからも家に友だちが来て、わーっと外で遊ぶというのがとてもいいなと思う。外に出ると必ずと言っていいくらい子どもの声が聞こえて、そういう環境は母親として気に入っていますね」
休みの日は、家族で身近な自然を存分に楽しんでいるようだ。
「八ヶ岳とか車山・霧ヶ峰とか、観光で人が訪れるような場所に手軽に行かれるのは楽しいですね。お弁当を作って、ちょっとした山とか草原を歩いてみんなで食べて。暮らしやすいのに、少し車を走らせれば大自然のなかというのは茅野市のすごくいいところだと思います」
逆に、困ったことはないのだろうか。
「冬はやっぱり寒いです。上田ともまた違う、ピーンと乾燥した寒さ。でも、寒さのなかにもきれいさがあるんですよね。星とか、冬の八ヶ岳とか」
殿塚さんに限らず、茅野市での暮らしを心から楽しんでいる移住者さんは口を揃えて言う。「寒さは厳しい、でも、冬こそ美しい」と。実際、冬は空気がいっそう澄み、雪化粧した八ヶ岳は驚くほどくっきりと凛々しく目の前に現れる。ピンク色に染まる夕景もまた、言葉を失うほど美しい。八ヶ岳の魅力が、これまでも数多くの移住者や別荘居住者と茅野市との縁を取り持ってきた。
「東京や名古屋からもアクセスがいいので、移住した方や別荘の方はお客さんにも多いですね。東京でこういうパンを食べていたから、こちらでも食べられてうれしいなどと言われることもあります。都会っぽい感覚を持った人が多いなと感じますね」
「カルパ」はそういった都会的な感覚を持った人たちが集まる場にもなり、同時に、古くから地域に住む人にも新しい感覚をもたらし愛されている。別荘地や保養地として長い歴史をもつ茅野で昔から起こってきた化学反応が、この小さなお店でも着実に進行しているのだろう。
「パンには小麦のほかにお米やライ麦も使っていますが、それはこちらに来てから知り合った人に『作っている人を知りませんか』と声をかけて生産者さんを紹介してもらいました。産地が近くて、生産者さんと直接つながれるというのは大きな魅力。信頼している農家さんの力になるためにも、食べ物として信頼できるものを丁寧に作ることを続けていきたいと思っています」
メッセージ
最後に、移住を考えている人へのメッセージを聞いてみた。
「全然知らない土地に入ったとき、ひとりでどうしようと考えていても仕方ないことが多いと思うんです。近所の人は、そんなに悪い人ってめったにいないと思う。でも、自分からアクションしていかないと、向こうから『どうしたの?』とは来てくれないので、なるべく図々しくなって外に出るように、自分から聞くようにすると外から入ってくる情報は増えてくる。少し図々しいくらいの方がちょうどいい。少なくとも茅野市では、そうやって自分から打ち解けていくとうまくいくと思います」(千恵美さん)
「ちょっとでも興味がある、住みたいなって思える場所であれば、やっていけると思う。いろんな心配もあるとは思うけど、移住したいという気持ちに蓋をしないで行動してみるといいんじゃないかと思いますね」(竜夫さん)
好きなことを楽しく、そしてとことん追求し挑戦を続ける竜夫さん。そんな竜夫さんの夢に共感しながら、いろいろな変化も楽しみに変える懐の深さをもった千恵美さん。ふたりだからこそ、偶然とも思える縁もしっかりと手繰り寄せ、家族4人の今の暮らしを豊かに実らせているのだろう。
「カルパ」は、香ばしいパンの香りとともに、そんな暮らしの楽しさが漂うすてきなお店だ。